仏教から生まれた日常の言葉

成城山耕雲寺

第60 邪険(じゃけん)

 のけ者にされたり、意地悪をされたりすることを「邪険にされる」といいますが、本来は「邪見」と書き、邪(よこしま)な見方で、間違った見方・考え方のことです。世の中の現象はすべて原因が あって結果が生じます。原因がない結果などありません。
 この「因果の理」を無視し、信じないことを「邪見」といって「邪慳」と同義語です。「慳」は、心が誤った方向に固くなってしまって、善意の区別がつかなくなった状態のこと。そこからのけ者にするという意味に転用されたものです。
「邪険」という場合には、むごく扱うことをいいます。
 何ごとも因果の理にそむき、自分勝手な考えに固執すると、是非善悪の判断ができなくなり、人生を誤ってしまいます。
 そうした事例は古今東西、枚挙にいとまがありません。
 私たちは、邪見の反対の「正見=正しくものごとを見る」の人ととなるよう、心をととのえていきたいものです。

 人が喜んでいるときはともに喜び、悲しんでいるときはともに悲しむ、これがそのまま慈悲の心といえるでしょう。

静岡県成道寺 伊久美 清智師 著より


 
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