第31話 先祖の流れと命について
肉体といのちのつながり
私たちがこの世に生まれたとき、肉体という仮の姿をもって現れました。肉体というものはあくまでも仮のものであり、いのちの根源を入れる器にすぎないのです。たとえば、いかに高度な性能を備えたロボットをつくろうとも生命という物が無いかぎり決して人間にはなりません。そして、科学がいかに発達しようとも、生命を作り出すことは不可能です。となれば私たちは、肉体によって生きているというよりは、生命によって生かされているということになります。その生命のおおもとが「いのち」というのです。
ところが肉体という物質を持ったがゆえに、物質にとらわれ、物質優先の意識が強く働きだし、生命体としてのとらえかたしか出来なくなってしまったのです。私たちの肉体は遺伝子によって親から子へと受け継がれます。親の特質は子、孫へと代々伝えられ、自分の子供、自分の孫と確認することが可能です。肉体が亡びると肉体次元の生命はなくなります。ならばいのちはどうなるのでしょうか。いのちは永遠不滅で永遠に受け継がれていくものです。前世で解消できなかった宿業(しゅくごう)を次の世に伝えながら生き続けます。いのちの根源そのものに宿業は無いのです。
まったくの無傷だったいのちに宿業の傷をつけていったのは肉体を持ったときからです。肉体という物質に固執した時から、私たちは多くの過ちを犯し、肉体の欲にとらわれ始め、次第に貪欲となり、その貪欲はおおもとのいのちという物を傷つけることになります。肉体の傷なら、傷ついた事が確認できるためにすぐに手当てをします。手当てをすることによって傷は治すことが出来ますが、いのちの傷は、傷つけている事すらにも気づいてはいませんから治しようもないことです。それに気づくとすれば苦を実感した時です。苦を通して傷を癒すことは出来ますが、癒す傷より作る傷の方が多いと、その傷は次の世に持ちこします。つまり、いのちもまた私たちが先祖と考える人たちの傷を背負い込んでいるわけです。
私たちは、先祖というと生前に記憶がある血縁、見覚え、聞き覚えのある肉親、といったとらえかたをしがちですが、実は私たちのまったく知らないいのちの流れの中での人たち、すべてをさして先祖ということが出来ます。その先祖を30代さかのぼると二十一億の先祖を持つことになるといわれています。それだけ先祖の流れは無限の如く、大切ないのちとしてつながっていくのです。