第26話 過去(かこ)

「過去」も「未来」も「現在」も仏教に語源をもっています。 「過去」は、サンスクリット語の「ガタ」の漢訳語で、「行ってしまった(ものごと)」の意。
「未来」は、「アナーガタ」の漢訳語で、「まだやって来ていない(ものごと)」の意。
「現在」は、「ヴァルタマーナ」の漢訳語で、「いまある(ものごと)」「いま起こりつつある(ものごと)」の意。これらの語は、直接に時をさしているわけではありません。
仏教では、「時の流れ」よりも「ものごとの流れ」の方を重視します。時が過去から未来にむかって流れているというのではなく、「いまだやって来ていない」ものごとがやってきて、やがて「行ってしまう」というのです。では、ものごとは、どこにやって来て、どこから行ってしまうのかというと、それは、わたくしのところにやって来て、わたくしのところから行ってしまうのです。わたくしのところには、どのようなものごとがやって来るのかというと、あちらが勝手気ままに押しかけてくるのではなく、わたしが選んで招待するのです。つまり、わたくしが、いま、なにをするのかで「未来」が決まるのです。
ところが「将来」となると「まさに来たらんとす」というわけで、こちらの意向を無視して玄関先に上がり込んで来るような感があり、これではこれから先のことは自分で作っていくという自由も、その自由にともなう自分の責任というニュアンスも伝わりにくくなってしまいます。

静岡県成道寺 伊久美 清智師 著より