第33話 『春は花、夏ほととぎす秋は月冬雪さえて冷しかりけり』
曹洞宗を開かれた道元禅師は、正法眼蔵「現成公案(げんじようこうあん)」の中で「仏道をならうというは自己をならう也。自己をならうということは自己をわするること也。自己をわするるとは万法に証せらるるなり。万法に証せらるるというは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」と述べている。
禅の心随を説いたものである。
その禅とは釈迦の悟った仏(ほとけ)の御いのち(おんいのち)であり、それはまた本当のこころそのものにほかならないとする。
上記の言葉は日本の四季を道元禅師が永平寺の夜空を眺めていて詠われたものである。
自然の美をありのまま、素直に賞でる気持ちがそのまま仏の御いのちに通じることをあらわして、その言葉自体が禅を説いている。 禅ではこれを「不立文字(ふりゅうもんじ)、教外別伝(きょうげべつでん)、以心伝心(いしんでんしん)、直指人心(じきしじんしん)、見性成仏(けんしょうじょうぶつ)」等と要約し、それは言葉を超越し、教義体系にしばられず、自分の胸中をじかにつかむことによって、その中に仏の御いのちが見出されると説き、禅の世界に解けこんでいくことを指している。その境地になりきることが坐禅の姿である。
現代人は、この本当の自己をわすれて、我が身を飾り、言葉をも持て遊んであたかもそれに実体があるかのように考えているところに自己疎外や断絶の要因があるのではなかろうか。
もう少し自分をよく考えることにこの言葉の意味があろう。