第34話 『道元禅師の目ざしたもの』
曹洞宗を開かれた道元禅師は、正治2年(1200年)京都の公家の子として生まれ、3才の時父を亡くし、8才で母を亡くして世の無常を感じ、13才の時出家して天台僧となり比叡山で修行に励んでいた。しかし天台で説く、すでに仏性の備わる人間がなぜ修行しなければならないのかとの疑問がとけず、山を下りて京都の建仁寺の栄西禅師をたずねた。
栄西禅師は臨斎宗を開かれた方で、その師に指尊を受け、その高弟の明全とともに中国宋に渡った。
道元禅師23歳の頃である。
入宋以来4年間、天童山の如浄禅師の許で日夜きびしい禅の修行を続け、生活そのものが禅であると悟られた。
如浄禅師の教えの”証(しるし)”を受けて日本に帰国した。
帰国後しばらく建仁寺に身を寄せていたが、京都の草庵に移り住み、天福元年(1233年)曹洞宗開宗の宣言書となる『普勧坐禅儀』を著わしたが、天台宗への挑戦状とも受け取られ、その迫害の難をのがれて深草に居を移し、興聖寺をたてた。この頃から、眼前のすべての現象のありのままの姿を仏法の現われとした『正法眼蔵』の大著にとりかかり、学僧としての道元の面目を遺憾なく発揮した。実践の人でもあった道元は、越前(福井県)の領主である波多野義重の招きで、その地に赴き永平寺を建立し、曹洞宗を開かれた。
道元禅師は一人でも本当の求道者を育てようと志し、禅の修行道場とした。
名利を捨て、俗塵(ぞくじん)を離れ、理想とした禅の生活を永平寺で送り、弟子たちにもきびしい出家主義をすすめた。
道元禅師も病には勝てず、修行の原則を要約した『正法眼蔵』の八大人覚の巻をのこし、寺を懐奘(えじょう)にゆずり、療養のため京都に上ったが建長5年(1253年)54才で亡くなった。