第115話 方便(ほうべん)

「うそも方便」といった使い方で、一般的には、うそをつくことも、時と場合によっては必要である、という意味に解されています。この場合の「方便」は「便宜的な手段」の意味です。うそをつくのは常識的に考えてよいことではないのですが「方便」という言葉には、うそをつくことを正当化するような響きがあるためにあまり印象がよくありません。語源はインド古語のサンスクリット語で、「目的に達するための道すじ」であり「方法」「手段」の意味があります。「方便」という語そのものは仏教語ですが、「うそも方便」という使い方は、正しい意味で使われているものではありません。お釈迦さまが人々に教えを説くとき、いきなり難しいことを説くのではなく、その相手に合った方法で教えを広めていきました。

『法華経』の中に、『古い家の中で子どもたちが遊んでいる。その家が火事になった。父親は、子どもたちを助けるために手だてをもうける。「子どもたちよ。外には、羊や鹿や牛の引く珍しい車がある。早く出ておいで。」子どもたちは、その言葉につられて外へ出た。だが車はなかった。でも、子どもたちは安全に家の外に出ることができた。』というたとえ話があります。燃えている家の中にいながら、それに気づかぬ子どもを父親が助けるように、苦しみのこの世にあって、幸せになれる方法に気づかない人々を救うため、お釈迦さまはたくみなたとえ話などをもちいて真実の教えを広めていきました。この場合の「方便」は、真実の教えに対する仮りの教え、一時的な手だてのことです。このたとえ話が、真実の教えに導くためには、あえてうそをつくとこともありうるといったニュアンスでとらえられたものでしょう。しかし、目的を実現するためには手段は何でもよいというわけではありません。「方便」には、どうしても相手を救ってあげたいという慈悲の心が根底になければならないのです。

静岡県成道寺 伊久美 清智師 著より