第86話 神仏に手を合わせることの意味

神仏に心を向ける、ということは、自分自身のなかの神仏ともっと大きな根源である神仏とが交流する、ということです。もちろん、交流するといっても、目で見え、耳で聞こえる訳ではありません。しかし、なにも語らずとも、なにかが通じあえる安らぎ……。
あたかも母のふところに抱かれた幼子のように、すべてをまかせきり、警戒心のまったくない状態。それが神仏に向かっているときの心です。

神仏に向かっているときの私たちは、確かに心が落ち着き、自分でも驚くほど善い心になっていることに気がつきます。競争社会に生きている私たちです。闘争意識をかりたてて精一杯生きることを余儀なくされています。そのどこにも安らぎはありません。しかし、神仏に向かうときには、競争心も闘争心もありません。ただひたすら神仏に向かうだけです。神仏もまたそうした私たちを決して裏切りはしません。裏切るどころかイラだった気持ちすらもスッポリと包み込み、やさしさに変えてしまいます。心が充たされ、やさしくなれば、その心を持って人にもやさしくなれます。そのためには思わぬ幸運に恵まれもします。

これが現世利益と受け取られる部分ですが、実は現世利益でもなんでもない。すべてが自分の行った善根の結果といえます。だから神仏に向かって手を合わせることが原点であり、まず最初に行うべき基本といえるでしょう。

神仏とは私たちの「いのち」そのものなのですから、その「いのち」を感じることができるならなにも神社仏閣を訪れることもなく、仏壇を祀る必要もないではないか、と思うかたもおられるでしょう。確かに形にとらわれることはなく、ヤカンでもコップでも、そこに神仏を見とっていけるならばそれでいいのです。しかし、ヤカンやコップに向かって神聖な心にはたしてなれるでしょうか。

確かに仏教ではこだわりをすてよ、と教えます。コップは飲み物を入れる物としてしかとらえられないとしたら、それもこだわりです。花瓶に使ってもいいし、鉛筆立てに使ってもいい。となれば、神仏の「いのち」の入れ物と考えても決して間違いではないのです。

しかし、どう使おうとも物は物としての価値観からなかなかのがれられない。科学的に考えるならば目から大脳に伝わる伝達そのものがすでにコップという物質としてしか伝わらないのです。それを、いやこれはコップの形はしていても、神仏なのだ、と思い直す作業を必要とします。そんな面倒くさいことで葛藤するなら、無条件で神仏を感じ、神聖な意識の集中できる仏壇、仏像のほうがずっと効果的といえるでしょう。

出典:芦辺鎌禅著「仏壇供養のわかる本」 廣済堂出版
1988年出版 36ページ