第84話 坊主頭になる理由

「テルテル坊主、テル坊主」とうたわれているように、僧侶は大抵頭を丸めている。宗教のめざすきよらかな境地にたどりつくには、心だけでなく身体もきよめなければならないとして、僧侶を含め聖職者は東西を問わず、頭髪や顔ひげを剃り落としている。カトリックの修道僧も、ハレクリシュナの行者も、仏教の僧侶もこの点ではみな同じだ。

釈迦が未だ仏になる前に、父の居城をひそかにぬけて、従者のチュンダと別れをおしみつつ、「いま私は人びとと共に苦から解脱することを誓って髪を剃り落とす」と告げ、自分の髪をバッサリ切り落とし、修行の旅に出たという。

これにならって仏弟子たちを出家僧と呼び、剃髪することがならわしになっている。髪を剃ることは、今までの自分を捨てて仏門に入り、心身ともにきよらかになって悟りをひらき、ひとをも救おうという崇高な願いがこめられているのである。

しかし、わが国では、浄土真宗の僧侶が、非僧非俗といって形式的な剃髪よりも心の純粋性を重んじるところから、入門後は剃髪にこだわらず、この傾向は次第に他の宗派の僧侶にも及んでいる。例外としては、禅門の道場では今でも僧侶は毎月四と九の日に剃髪し、そのおりに、自分の頭髪を自分で剃ることは「不和合」として固く禁じている。
一人でできることでも、わざわざひとを煩わせてともに助け感謝し合う、共生きの精神を養うためである。

出典:松涛弘道著「誰もが知りたい217項 仏教のわかる本」廣済堂出版
1974年出版 91ページ