第83話 権現さまは仮のすがた
権現とは、人びとを救うために権化や化身などといって、仏や菩薩が権(かり)の姿でこの世に神としてあらわれたことをいい、仏教がわが国でひろまる平安時代ごろから、土着の信仰と結びついた。この考え方を本地垂跡(ほんじすいじゃく)思想という。人びとは人間ばなれした働きをたたえ、これらの神や偉人は仏が仮の姿でこの世に現われ、再び仏の世界に帰っていくものと考えた。
たとえば、熊野の三社権現のもとの仏は、阿弥陀仏、薬師、十一面千手観音と考えられ、豊前宇佐や筑前筥崎の八幡大菩薩は、欽明天皇の時代に韓国から渡来した鍛冶翁だといわれる。唯一の例外は徳川家康で、もとの仏はいなくても、その偉大な業績によって後水尾天皇から元和三年(一六一七年)に東照大権現の名をおくられた。
こうして仏と神とのなれ合いは、お互いの寛容さから可能になり、仏教を土着化させるのに役立ったが、それはまた、仏教の特異性を失う羽目にもなった。キリスト教も同様である。そもそもわが国の神は、キリスト教で説く唯一絶対の神とはちがい、特定の場所や事物やひとに宿る神性の働きを名付けたもので、その数はかぞえきれない。キリスト教の神も、その思想がわが国に紹介された時に、幸か不幸か日本の神と同格化されてしまった。
明治元年に神仏分離令が発布されてからは、公然と権現の神号を名のることは禁止され、権現さまは寺院か神社のいずれかに仏か神として帰属するようになっている。
出典:松涛弘道著「誰もが知りたい217項 仏教のわかる本」廣済堂出版
1974年出版 44ページ