第117話 魔(ま)

「魔がさす」などと用いられるこの語は「悪魔」と同じ意味で、インド古語サンスクリット語の「マーラ」を語源とし、「死にいたらしめるもの」というのが元々の意味です。修行をきちんとおこなえば解脱できるわけですが、インドの古い文献では解脱は別名を「不死」ともいいます。解脱した人は輪廻の輪をぬけ出たのだから、生まれかわるということはない。ということは、もはやふたたび死ぬことはない、ということになります。したがって「不死」。修行をさまたげるものは「不死にいたらしめないもの」であるから、つまり「死にいたらしめるもの」となるわけです。

お釈迦さまが修行をしている時、悪魔の王パーピーヤスが自分の三人の娘を使ってさかんに誘惑したことになっています。その娘の名前は、アラティ、ラガー、タンハーといいますが、それぞれ「嫌悪」、「むさぼり」、「渇愛」という意味をもっています。つまりこの三人はいずれも人間の本能とでもいうべき根本的な迷いを言い表しているのです。もちろん、お釈迦さまは、この悪魔一族の誘惑を軽く退けています。

一般に悪魔というと、私たちの外側にいて私たちに悪さをしかけてくるという西洋的な悪魔のイメージをもっているのですが、仏教でいう悪魔は、人の心と体に深くしみついて、苦しみの世界にしばりつけているものなのです。冒頭の「魔がさす」は「悪魔が心に入り込んだように、ふだんでは考えられないような悪念を起こす」と辞書にはありました。

静岡県成道寺 伊久美 清智師 著より