第121話 無我(むが)

日常使っている言葉に「無我夢中」とか「無我の境地」という語があります。「無我夢中」は「ある物事に熱中して他の物事を顧みないこと」。「無我の境地」は「自分の存在を意識しない状態」と説明されています。

「我」とは一般的には自分自身のことですが、古代インドにおいては自己の本体、ものごとの本質をいい、永遠不変であるとされていました。しかし、お釈迦さまは、この世は常に移り変っているところから永遠不変のものはないと説きます。つまり、自己の本体などないというわけです。

「我」と同義語に「わたくし」という言葉がありますが、自己の本体というものがない以上、「私はやけどをしました」と言ったとき、やけどをしたのは身体であって自己の本体ではない。「私の子ども」と言った場合も「私」というものにとらわれているのです。このように私たちは、自己ではないものを自己であると考えて執着しているために迷いがあり苦しみがあるのだといいます。

「我である、我である、と思っているものは、実は我ではない」「我ならざるものを我と思ってはいけない」とお釈迦さまは説かれました。つまり、なにものにも我は無いというのが「無我」なのです。生きものだけでなく、すべての言葉の対象となっているものごとには永遠不変の本体はないというのです。あらゆるものは常に変転しているのであって、永遠に変化もしないで現状のままでいるものなどは、この世に存在しない。

たとえば、一輪の花でもいつかはしおれてしまうように、一定の状態のままでいるものはないというのが「無我」なのです。日常生活の中で「俺が、俺が」というせまい考え方や、我欲我執に振り回され、惑わされることのないよう精進努力したいものです。

静岡県成道寺 伊久美 清智師 著より