第74話 勢至菩薩は悲劇の秀才

勢至菩薩は智慧の象徴として、慈悲の観音菩薩と共に阿弥陀仏の脇侍であるが、どういうわけか中国でもわが国でもあまりパッとしない。
『観無量寿経』には「智慧の光を以てあまねく一切を照らし、三途を離れしむるに無上の力を得たり。是の故に大勢至と名づく」とある。
インドや西域地方では盛んに信仰されたが、中国に伝えられてからは、独立した信仰にまで昇格した観音菩薩のかげにかくれてしまった。宗教には慈悲とひきかえ、智慧をあまり必要としないからなのだろうか。それとも中国人はそれを欲しなかったからなのだろうか。

一説には、勢至菩薩は仏弟子目蓮の伝説を神話化したものだといわれる。聡明さで知られる目蓮は、親友である舎利弗と共に釈迦から信頼され、その両腕ともなっていたので異教徒はねたみ、この二人を殺してしまえば釈迦の威光も消えるだろうと考え、まず頑健な目蓮を消すことにした。
ちょうど目蓮が修行中、彼をねらった異教徒は、金でやとった浮浪児をそそのかして石を投げさせ、ついに目蓮を血だらけの肉塊にしてしまった。
釈迦はこれを知って「生死はさとれる者にとって大した問題ではない。目蓮の死は限りなく美しい」と称讃したという。

この目蓮が勢至菩薩であるとすると、舎利弗はさしずめ観音菩薩ということになろう。
ともに釈迦の両腕的存在であり、観音、勢至は阿弥陀如来の両腕的存在である。密教でも勢至菩薩は胎蔵界曼荼羅に描かれ、観音の慈悲心とともに菩薩心の種子を与えるという。

出典:松涛弘道著「誰もが知りたい217項 仏教のわかる本」廣済堂出版
1974年出版 31ページ